こんにちは。
今日は「泣く」ことに関した記事を書いてみます。
このテーマで書くことにしたのは実は私が昨日 「泣いた」 からです。
コロナの長い自粛の中でやはり周囲は変わってしまった。
人の心は繊細で、そのストレスはこんなにも人を変え、そしてさらに周囲に波紋を広げてしまうんだな、って思いました。
私が泣いた経緯は話せば長くなりますが
私が泣いた理由は、過去の思い出でした。
大人は過去に泣く
私は考えたんです。
悲しいって感情や悔しいって感情の中で泣いてる自分を客観的に見ながら
私は「何に」泣いているのか
と
そしてそれが「過去」だったことに気がつきました。
過去の経験や、過去の思い出や、もう戻らない儚いものに対して私は最も悲しんでいた。
大人は「過去に泣く」
アドラーは「トラウマはない」と話をしてますが、私も半分ぐらいはそんなふうに思います。
みなさんも考えていてください。
泣く時
あなたは何に対して泣いているのでしょうか
では
子供が「未来に泣く」というお話を絡めていきます。
子供は泣くことに「目的」を持っています。
そのほとんどは「成長過程」「進化」です
子供が泣くのは「過去ではないことがほとんどです。
その涙は未来に向いています
私たちは悲しい時、悔しい時、に主に涙を流したりします
その悲しみは例えば最愛の誰かとの別れ。その時に長きにわたって「思い出」に涙を流します。
「いなくなった」「失った」という現実は過去の思い出から
「悲しみ」「哀れみ」を生み出していくのです。
記憶というのは「過去」です
成長や進化のために泣いてきた私たちは様々な経験をして、生きて、脳にインプットしたものを自由自在に引き出しては
苦しみ悲しみ、時には楽しみ、憂う。
アドラーの推奨するように「トラウマ」がないのなら、目的論こそが最も正しい考え方であるのなら、今回のこの涙は私の目的とするとこではないと思いました。
故人や大事な人との別れを想って泣く
それを否定しているわけではありません
ただ
泣くことが辛く悲しい時には、
こんなふうに想ってみたりしてもいいんじゃないかって思った
故人を忍ぶことは悲しみだけではないはず
別れは悲しみだけではないはず
どんなに不条理な別れが来ても、その時に笑っていられる自分がいい
そのためには
やっぱり「今を精一杯生きる」ことなんだ
すごく大事に人を思うべきなんだ
思い出に泣くことも含めて成長できる涙ならそれは本当の大人の涙かもしれない
過去は
過去
生きてきた証
それが私たちを作って、同時に悲しませもする
大人が過去に泣くなら、
子供は未来に泣く
あれが欲しい、これが嫌だ、こうして欲しい、と
得るために泣く
実は大人のあなたはそんなに悲しむ必要はない
気がついたら私は泣くことをやめて、そんな考えに没頭していました
次はきっと、未来に泣きたい
感動に泣きたいって
実は大人のあなたはそんなに悲しむ必要はない